野茂英雄投手の成績まとめ!NPB、MLB通算と当時の様子も紹介!!
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野茂英雄投手が、近鉄バッファローズを任意引退して、ロサンゼルス・ドジャースに入団してから25年。
ここでは、野茂投手のNPB、MLBでの年度別の成績と通算成績。そして、野茂選手がプロ野球ドラフト会議で指名された時の様子など、当時のことも併せてご紹介しています。
「え~、そんなことあったの?!」
「あの選手って、野茂投手と同期なんだ!」
ってことも知っていただけて、楽しんでいただけると思います。
では、さっそく、野茂投手のNPBとMLBでの成績からご紹介します。
野茂英雄投手の成績、単年度と通算
NPB(日本プロ野球)では、5年間、すべて近鉄バッファローズに所属しています。
やっぱり野茂投手はすごいなと感じるのは、日本での5年間で、
そして、
・4年連続で200イニング以上投球
・4年連続15勝以上
・4年連続200以上奪三振
まさに圧倒的な活躍です。あとで詳しくご紹介しますが、野茂選手がドラフト指名された時、8球団が指名しました。
その評価にたがわない、素晴らしい成績ですね。
MLB(アメリカのメジャーリーグ)に移籍したあとも、野茂投手の快進撃は続きます。
・3年連続10勝以上
・3年連続200以上奪三振
・最多奪三振を2度
・ノーヒット・ノーランを2度達成
その後、2年間低迷する時期がありますが、ブルワーズで12勝を挙げ、翌々年にはレッドソックスで再び13勝。
ドジャースに復帰して、レッドソックス時代から、3年連続10勝以上を挙げています。しかもドジャースに復帰後は、MLB自己最多の16勝を2年連続という活躍。
この活躍は、30歳を超えてから。不屈の選手と言えるのではないでしょうか。
野茂英雄投手はドラフト会議で史上最多の8球団が指名
野茂投手がドラフトで指名された1989年は、現在のドラフトと違い、全球団が同時に選手を指名する、という方法がとられていました。
ですから、8球団から指名されるということになったのです。1989年の1位指名をご紹介しておきます(球団名は当時のもの)
・ロッテ 野茂英雄→小宮山悟
・大洋 野茂英雄→佐々木主浩
・日本ハム 野茂英雄→酒井光次郎
・阪神 野茂英雄→葛西稔
・ダイエー 野茂英雄→元木大介(入団拒否)
・ヤクルト 野茂英雄→西村龍次
・西武 潮崎哲也
・中日 与田剛
・オリックス 野茂英雄→佐藤和弘(パンチ佐藤)
・広島 佐々岡真司
・近鉄 野茂英雄
・巨人 大森剛
この年のドラフトは、後年、「黄金のドラフト」といわれるようになります。
大洋が指名した佐々木投手は、のちに「大魔神」と呼ばれ、クローザーとして大活躍。MLBのシアトル・マリナーズでも活躍しました。
西武が指名した塩崎投手。西部で15年間、先発と抑えで活躍しています。
広島が指名した佐々岡投手も、広島で18年間、先発、抑えの両輪で活躍した投手です。
ほかにも、ロッテ小宮山投手、阪神葛西投手、ヤクルト西村投手、中日与田投手など、多くの投手が活躍しています。
野茂投手は、最後に残った1枚で近鉄へ
野茂投手の指名抽選では、近鉄の当時の監督、仰木彬さんがクジを引きました。でも、引いたのではなく、最後に残っていた1枚だったのですね。
野茂投手は、意中の球団を口にしなかった
ドラフト前になると、指名候補の選手が、意中の球団を口にすることが多かったのですが、野茂投手は意中の球団を口にすることはなかったそう。
ただ、「どうしても行きたくない球団がある」とだけ言っていたのです。その、行きたくない球団がどこなのか、ということは口にすることはありませんでした。
また、野茂投手自身は、関西の、近鉄、阪神、オリックスの3球団が指名してくれるのではと思っていたそう。
でも、ドラフトが始まると、8球団が指名。これには本人も驚いたそうです。8球団から指名された背景には、意中の球団がないと発言していたこともあったのかもです。
野茂英雄投手がすごいのは、成績だけでなく、球界に新たな波をもたらしたことも
まずは、投球フォーム。バッターに背中を向けて投げるそのフォームは、プロの選手でも恐怖を感じるというものだったそう。
この投球フォームは、高校時代からで、高校2年の時に完全試合を達成していたので、プロのスカウトも視察に来ていたんです。でも、独特のフォームを見たスカウトの多くは、手を引いたそう。
その後、野茂投手は、社会人野球に進み、88年のソウルオリンピックで銀メダル獲得の中心選手になります。
次は、コンディショニングトレーナーとともに、最先端のトレーニングを取り入れた選手でもあります。
そして、日本人選手がMLBに挑戦する道を作ったということ。野茂投手がMLBに挑戦したとき、メジャー契約ではなく、マイナー契約でした。
今でしたら、日本のプロ野球から、MLBへ移籍するときは、ほとんどがメジャー契約。でも、野茂選手はマイナー契約だったのです。
で、当時のお話を少し。
野茂投手が入団した、ドジャースの当時のGMクレア氏が野茂投手に言ったこと。
「メジャー契約は与えられるものではなく、勝ち取るものだ」
この言葉を聞いて、野茂投手は、黙って頷いたそう。自信と覚悟が見えますね。
そして、野茂投手がドジャースに入団した、当時の監督のラソーダ氏は、野茂投手の引退後、「彼(野茂投手)が成功しなかったら、現在これほどの日本人選手が、メジャーでプレーしていなかっただろう。彼(野茂投手)はパイオニアにふさわしい、実力と人格を持っていた」と野茂投手をたたえたそう。
ほかにもある、野茂投手のすごい記録
・NPB契約金で、史上初の1億円越え
・MLBでのノーヒット・ノーラン、最多奪三振タイトル、新人王は、すべてアジア人初
このほかにも、近鉄との契約時に、投球フォームは変更しないという条項が付け加えられたそう。
あと、94年の対西武戦で、16与四球の191球で完投勝利。1試合16与四球は、NPB記録です。ちなみに、野茂投手は、14与四球で2位の記録も持っています。
野茂英雄投手とは?
大阪府立成城工業高等学校(現・大阪府立成城高等学校)から、新日本製鐵堺へ入社。1988年のソウルオリンピックでは銀メダル獲得。
1989年のドラフト会議で、近鉄に1位指名されてプロ入り。トルネード投法という名称は、公募で決定。近鉄入団以前は、背面投法(はいめんとうほう)とも呼ばれていました。
毎試合、三振を奪取することから「ドクター・K」と呼ばれるように。
1995年、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約。ドジャースを7年ぶりの地区優勝に導く活躍で、日本とアメリカで「NOMOマニア」という言葉生まれるほど人気を誇るようになりました。
まとめ
野茂英雄投手のプロ野球での成績を、NPB、MLB、単年と通算でご紹介しました。
いかがでしたか?野茂投手のすごさを、改めてすることができたのではないでしょうか。